2010年06月21日

そういえば・・・

前回の記事を書いてて、思い出したことがあった。

イメージです大学時代、ポスト・モダンにかぶれた学生同士の会合みたいなものに、駆り出されたことがあったのだ。
都内の公共施設だったと思うが、そこに幾つかの大学から、その手のポスト・モダン・オタクみたいのが集まって、フランスとか造形大学とかから、誰だかを招聘するとかしないとかの議論をしていた。

すると、話がどんどん変な方向に逸れて行く。
「俺は、あれも知ってる、これも知ってる」
みたいな感じで、威張り散らす奴が出てきて、会合全体が
「誰それを知ってる自慢」
とか、
「誰それの本を読んでる自慢」
みたいになってきたのだ。

これもイメージそしたら、1人だけ毛色の違った学生がいて、
「あの〜、皆さんが沢山の知識を持っていることは分かるんですが、それって何かの役に立つんでしょうか?」
と言い出した。

 

 

 

(ホホウ)
と思って、彼の言うことを聞いていると、どうやらカメラマンを目指して、現在勉強中らしかった。

Spiritual America
Nurse Paintings
Canal-Zone


「リチャード・プリンスの作品(左図)は、皆さんがおっしゃるように、ある意味確かに文明批評になってる面があって、それも面白いんだけど、彼の作品の面白さがそれだけみたいに言われると、ボク、ちょっと反発したくなりますね。それに、皆さんの話を聞いていると、最初からこの世の中に批判的でなきゃいけないとか、ありとあらゆるポスト・モダン系の本を読んで理解できていないと、作品が作れないとか、そんな風に聞こえてならないんですよ。でもそれって、作家への素朴な誤解だと思いますよ。うん。現実的じゃないです」
すると、傲慢な感じの薄笑いが、さざ波のように会場全体に広がった。

しかし、彼は続けた。
「見る方にしても、自由な鑑賞であって良いと思うんですよ。だけど、今話し合われていることって、自由の脱構築だとか、そのまた脱構築だとか言ってて、なんか観念のお遊戯ですよね。写真って、もっと実生活に根付いたものだと思うなぁ。見る方にとってもだけど、撮る方にとっても・・・。そういう考え方が、すでに権力構造にはまってると、おっしゃる方もいるとは思いますが、そんなものは言葉の遊びでしょう。だって、写真はともかく、絵画の歴史は古くて、つまり視覚文化の歴史ってことですけど、その間、色んな社会制度があったはずなのに、作家がずっと同じ権力構造を維持してきたとは考えにくいですからね」

会場では、彼の話を無視して、私語し始める人間が出てきた。

「ぼくがここにきたのは、もう少し、自分が写真を撮るのに、良いヒントがもらえるかなと思ったからです。でも、間違いだったかな。少なくとも・・・・そうですね、むしろ・・・・いや良いです」

彼は力無く笑った。

「皆さんは、何でこの世の中に批判的になっちゃってるんですか?そこを、素直に問いつめて行けば、もっと簡単でハッキリした答えが出ると思うんですけど。何でいちいち、有名なアーティストとか学者を引っぱり出して、自分を飾らないといけないのかなぁ」

もう数十年前のことなので、記憶は曖昧だが、大意こんなことを彼は述べ、部屋を出て行った。
その後、ポスト・モダンかぶれの学生たちは、彼を憐れむようなことを言って、ことさらに笑いながら、
「自分たちの新しさは、なかなか理解されませんから」
「真の創造性は、破壊の後にしかこないんですよ」
とか言って、自分たちで大受けしていた。
ぼくは、気分が悪くなって外に出た。

イメージその後のことは、よく覚えていない。
たしか広い道路を横断した反対側の坂道の上に、小汚い赤提灯が蝟集していて、ぼくはそこの一軒に入り、酒を飲んだ。
年老いた夫婦がやってる、屋台みたいに小さなその店には、マンボウの刺身があって、すごく美味かったことだけ、ハッキリ記憶している。

そう、絵画に権力構造があると言うなら、赤提灯の文字にだって、権力構造がないとね(爆)。

posted by インク at 00:52 | TrackBack(0) | 暮らしのひとこま | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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