2010年05月30日

働く幸せと会社、そして国家

クリックで出版社へ日本理化学工業という会社がある。

チョーク作りと、社員の7割が知的障害者ということでも有名。
会長は、右のような本も出している。

100%知的障害者のみで稼動できるよう、製造ラインの工程に、さまざまな工夫を凝らし、日本のトップ・シェアを誇るほどの、高い生産性と利潤をあげている。
2009年には、渋沢栄一賞を受賞したそうだ。

会長は、インタビューに答えて、こう言っている。
人は働くことで幸せになれる。であれば、会社は社員に「働く幸せ」をもたらす場所でなければならない。そのように、私は考えています。
 もちろん、会社を存続させるためには利益を出すことが絶対条件です。しかし、「利益第一主義」のために、社員が働くことに幸せを感じられなくなってしまえば、会社が永続的に発展する力は失われてしまいます。だから、会社にとっても「働く幸せ」はとても大事なものなんです。
・・・・障害者雇用を始めてはや50年が過ぎました。ここまで私を導いてくれたのは、知的障害者の皆さんにほかなりません。働くことの意味、人生にとって大事なこと、すべて彼らに教えてもらってきたのです。
 今回、出版した書籍には、私が知的障害者に学んだ大切なことを書かせていただきました。派遣切り、リストラ、働き盛りのうつや自殺の増加など、近年、健常者にとっても、「働く幸せ」を実感することが難しくなっているように感じます。本書が、頑張って働いていらっしゃる皆さまのお力になれれば幸いです。


さて、会長が障害者から教わったという、「働く幸せ」だが、それはこんなエピソードに含まれている。


 

障害者の方と一緒に働くなかで、どうしてもわからないことがありました。施設で楽に過ごすこともできるのに、なぜ、一生懸命に働こうとするのか理解できなかったのです。
ある日、禅寺のご住職にその疑問をぶつけてみたんですね。すると、住職さんは、こうおっしゃいました。
「人間の究極の幸せは、(1)人に愛されること、(2)人にほめられること、(3)人の役にたつこと、(4)人から必要とされること。働くことによって愛以外の3つの幸せは得られます。障害者の方たちが、企業で働きたいと願うのは、社会で必要とされて、本当の幸せを求める人間の証なのです」

障害者雇用第1号社員の林緋紗子さんと障害者の方々は、養護学校で職業訓練を積んできていた。
養護学校の先生は、会長のところに何度も足を運び、
「(このままでは)あの子たちは、一生働くことを知らずに、この世を終わってしまう人となるのです」
と訴えたと言う。

おそらく、養護学校で訓練を受ける中で、生徒たちは既に「働くことの幸せ」を実感できていたに違いない。先生方の、教育の素晴らしさがうかがえるではないか。
こうして、彼らは学校で教わった通り、純粋かつ素直に、幸せを求め、懸命に働いたわけだ。
朝は誰よりも早く出社し、昼休みもほとんどとらない。高熱が出ても、
「自分が休むと困る人がいる」
といって、休もうとしなかった。

こういう話を聞くと、ぼくら健常者の異常さ、ひねくれさ加減を、痛感する。
「働く幸せ」どころか、仕事があることへの感謝もなく、仲間の足を引っ張る。讒訴する。有能な社員が辞めて行くよう仕向け、自分が安泰になったと喜ぶ。
二日酔いで出社する。勤務時間中にパチンコに行く、掃除をさぼる・・・等々。

確かに、会社側も「働く幸せ」をもたらす場所となるべく、
・役に立つようにする(工程を工夫して、社員の弱点を消し、個性を生かす)
・褒める(賞与)
・必要だと認める(身分)
ことを、厳しくかつ公正に、やっていないのかもしれない。

だが、会社が頑張ったとしても、ろくに働きもせず、威張るだけは威張りたがる奴が多いのも事実だ。
やはり、人間のグループは、同じ価値観を共有できていないと、トラブルだらけになると言えるのだろう。

しかし、同じ価値観を求めて、延々と求職活動ができれば良いが、今はとてもそんなご時世ではない。
せめて、自分ひとりでも、
・役立つ人間になるため、自分の弱点を見つけては補う
・自分で自分を褒める
・自分で自分の必要性を見つけたり、実感する
・どれに失敗しても、自分を大好きでいる
ようにするしかないのではないか?

ふつうなら、これで十分だろう。
それでも対処できない場合が、政治の出番だと思う。
政治には、
「働く幸せをもたらす場所が、どんどん増えるよう、法律を整備する」
「利益を出しながらも、利益第一主義にならない、心の教育を整備する」
責任があると思う。

だが、今民主党がやっていることは、まったく逆だ。
彼らは、まったく別の目的を達成するため、ろくな討議もせず、法の整備を急いでいるように見える。

年金で食べて行ける老人たちの、好き嫌いや嫉妬心に迎合して、「事業仕分け」などと言う、法的拘束力のないパフォーマンスに、国民の目を釘付けにする。それに、マスコミが協力する。
その一方で、口蹄疫、普天間、八ッ場ダムなどのように、「政治的不作為」によって、国内産業、外交を疲弊させる。これは、不作為の時間が長くなればなるほど良い。だから、マスコミにも平気で叩かせておく。話題が提供されたマスコミは、それをしばらく飯のタネにできる。
だがその裏で、民間企業やメディア、個人に対し、政府の強制力を強める法案を、次々に強行採決している。マスコミは、これをまともには報道しない。

その結果は、政府が「9条に違反しない!」と言えば、自衛隊の海外派兵が可能となるし、あるいは「日本に、中国人を一千万人入れる!選挙権も、被選挙権もやる!」と言っても、それが可能になる体制だ。
どの党が政権を握っても、政府に反対したり、抗議したりすれば、逮捕または何らかの拘束が待っている。
要するに、右でも左でも独裁が可能な状態が、作られつつあるということだ。

チャップリンの『独裁者』だが、自民党がどれほど腐っていたとしても、官僚が豪邸に住んでいたとしても、それが独裁の理由になるか?
独裁と言うことは、
独裁者以外の国民は、ロボットになる
と言うことだ。

腐敗には怒ったが、そんなことにまで同意した覚えはない。
政治家や官僚に、道義を求めはしたが、
「国民を意のままに操ることのできる、超強力な政府が欲しい」
と言った覚えはない。

だが、なぜか民主党政権は、そっちの方向に猪突猛進している。
口蹄疫も、普天間も、八ッ場ダム問題も、事業仕分けも、すべて政府権限強化のために利用されている気がする。

これは、学生運動の続きなのか?過激派殺人集団が、ついに政権を奪ったということなのか?
それとも、中国の支配が、ここまで及んできたと言うことなのか?
9条やら、反戦・平和やら、格差是正やらの社会主義的な主張など、実は集票のための餌でしかなく、本音は
多数決で選挙に勝ち、政権を握った一定期間内に、取り消し不可能な法律を山ほど強行採決、回復できないほどの経済的、政治的、民族的打撃を、日本人に与える
ことではないのか?
それが、ほんとうの「任務」ではないか?

ぼくらの「働く幸せ」は、このまま消えてしまうのだろうか?


 

posted by インク at 00:04 | TrackBack(0) | 暮らしのひとこま | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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